あああああああ

数少ない自分の知っていることを、自慢げに言う。

 

罪悪感の処理。

 

他人に響かせるよりも、自分に忠実な言葉を丁寧に発することができるのか。

 

見せ物ではない。

 

他人にみてほしい、許してほしいの裏返し。

 

許可、許し

 

何か許されたりしないと、許されていると思えないと、主体的に行動できなくなっている。

 

失敗への不安が尋常ではない。

 

かっこうよくいたい、許されたいから、わけわからん

 

熟女もののエロ動画しかみなくなっている

 

許されたいという思いと、現実で同年代の女の子に見向きもされないという状況が重なるとエロい熟女にいきつく

 

セックスの壁を簡単に乗り越えていく同年代の人々。

 

かっこうわるすぎて真面目に対面して言えない様な、だけど深刻な悩みは、年を重ねるごとに増えていくのだろうか。

 

仕事がうまくできない、ひとりではなにもできない、だけど他人の前ではできるようなフリとかっこうつけをする。

 

休日に、休日ばかりだけど、嫌なことを考えて、悪質な感情とともに時間を無為に過ごす。

怒りをしまう。

 

他人は自分と同じではないから、届かないから、しまうほうがよい。

 

物語を作っているのも他人だ。

 

一人歩きしたなにものかを勝手に解釈して、他人に貼り付けて、裏切られたとか思っちゃって。

 

意味がないことだらけだ。

 

セックスを経験した友人が、セックスも、アルバイトも、車の運転も、全然できない自分と一緒にいる、変な空間。

 

自分は、友人の間ではそこそこ面白い人として通っていて、なんだかなあと思う。

 

全然違うのに、いいのだろうか。そう思っても、それを口にしたところで、どうせ無意味な沈黙のなかで自分への同情のにおいを探す自分が現れるだけだろうな。

 

そして、うまくいっている友人たちは優しいから、実際に同情もしてくれるだろう。

 

でもそれを言ってしまったら、素直といえば聞こえはいいが、ただ従順に、笑っているだけの、主体性ゼロの人間になってしまいそうだ。

 

自分にないものだけ数えたり、最悪な過去を思い出して、それをすれば許されるかのように正確に思い出そうとして沈鬱な気分になったり。

 

何にも楽しいことがなかった大学生活、と言ってみても、それだけだ。

 

前に進むのは、誰からみての言葉だろう。

 

最終的に自分が損をするのに、意味不明な可能性に掛けて、他人のことを思って罪悪感を感じたりする。

 

いてもたってもいられないような、才能を持つ人間にあって、自分は失った何かを取り戻して回復させるべきなんだ。

 

こんな文章をいくら書いたところで

 

でも罪悪感を感じるよりは、無意味感を感じていたい。

 

 

しぇしぇしぇの雑記

自分は他者から、本来の自分を超えた、自分以上の存在だという評価を受けたいのだと思う。

それは非常に不健全な思考だ。

他者の評価に沿って、やみくもに、自分以上の何かを演じてしまいつかれる。

意味のない疲労感。思えば有意義な疲労感を久しく味わっていない。

労働をするときもそうだ。

自分は、誰かから認められたい。そう思うこと自体は誰にでもあるだろうし、そういう感情も必要なのだが、やはり自分は自分以上のものになって、他人の心の奥底に影響を与えたいと思ってしまうのだ。

他人はまず見てもいないのだろう。恐ろしく無駄な心労を抱えながら生きてきたことに絶望する。

 

承認されたいという思いが強すぎて、いつからか自分そのものを追い越してしまった。

それゆえに、自分はただの不器用な人間以上の憂鬱や絶望や不安を抱えた。

人間の心はこんなにも不合理に動くこともあるのか、と思う。

精神的な問題は生物的に考えたら明らかにおかしくないか。

なぜ何も起きてないのに弱くなる必要があるのか。

生物に関しては門外漢なのでこれ以上の考えは避ける。

また自分以上の存在になりたがるので。

 

言葉や物語に共感することはあるが、弱い言葉、弱い人間が感傷的になったときにつづった力が感じられない言葉に共感するのは、あまりよくないことかもしれない

強くなれないと、その言葉を記憶しておく意味があまりない気がする

 

雑記

自分は労働から疎外されてしまっていて、他人はその感じを味わっていない。それが悔しい。

自分は弱いだけで、苦しんでいるだけなのに、そのことをもって他人を見下す。

自分を軽々と飛び越えていく他人たちが、憎くて仕方がない。

そして、さらに悔しいことに自分を飛び越えていく一般的な人間が楽しんでいるものは、自分にとって全然面白く感じない。

これでは同じところへいけても・・という気持ちだ。

弱さゆえに苦しんでいるだけなのに、自分を誠実でよい人間だと思ってしまう。

ニーチェが一番痛烈に批判した人間に、自分がなってしまっている。

 

自分にとって働くことはバカにされるのと同じだった。

そうなっている自分、そうなっていない他人。そこの差。

 

自分が他人より劣っているという感覚が常にあるがゆえに、何かで他人より優位に立たなくては、と脅迫的に思うようになる。

劣っている自分を直視できない。

他人に敏感になって、叩いたり、チェックせずにいられない状態から抜け出すには、徹底的に世にもまれて、堕ちて、堕ちつづけることが大事だ。

坂口安吾もこんなこと言ってたきがするし。

 

自分は他人をものすごく気にする。自分の価値観を他人の価値観、社会の価値観にあわせようとする。それがつらくなる。

社会や他人を過大評価していて、どんどん こうすべき とかの価値観でかためて、そこから逸脱する人間に嫌な感情を抱くようになる。そういう人間のほうが自由なのに。

自分の想定する 他人がこう思うだろう、という予想の正確さを担保しているものはなにもない。単なる思い込みにしばられる。

 

思い込みの他者にしばられないように。

 

何か、不運なことがあったときに、自分は卑屈さゆえ、「どうせこんなものなんだ」と諦めて、それを中心にしてしまう。

それだと、最初の一発 がうまくいかなかった場合、とりわけ自分のように不器用で最初の一歩が下手な人間の場合、どんどんやることが少なくなってしまう。

卑屈さをどう消すのか。

 

どうすればまっすぐに傷つくことができるか、卑屈なしにどう反省するのか

日々気をつけるというか、そこを中心にして学びたい。

 

考えたら弱くなってしまうこと

考えたら強くなれること

その見分け

 

プラスの意味で夢中になれるものや、熱くなれるものや、目標がないと、ひとまず自分に嫌な感情を与えた人間をどう苦しめるか。どう見返すか、ということばかりになってしまう。

マイナスをゼロに、損を埋める作業しかしなくなってしまう。

そしてそればかりやっていると、今度はほんの僅かな損さえも気になっていく。

それじゃ頭がおかしくなる

だから熱くなれるものを追っかける気持ちが大事になってくるんだろう。

 

 

匿名の他者への愚かな期待・自分の脳内にあることを他人に言わせること

ブログ名を変更できることを知ったので変えた。

 

やはり自分はツイッターで、短い文章の中で読み込まれることは納得がいかない人間なので140文字に縛られないほうが好きだ。

全部出し切りたいのだ。

出し切りたいと聞くと精子を思い出す。

スポーツ選手のセックスがすごいらしい聞くと、なんかやりきれない気持ちになる。自分は負けてしまうと思うからだろうか。

感傷に浸りたくないものだ。

 

チラシの裏に書けば良いことを、自分はわざわざネットでやるわけだけど、それはいい意味の緊張感があるからだろう。

自分にうそをつきたくないという意味ではチラシの裏・見せなくてもいい文章 を貫きたいけど、それだと救いがない。

刺激がない。

どんどん暗くなってしまう気がする。

暗さを排除するために他人が見ているという可能性を残しておくのは良いことだ。

 

自分はよくチャットをやってしまう。

これは悪い癖だと思う。時間ばかりとられるからだ。

卒業論文とかを書かなくてはいけないのだから、無駄な時間をすごしてアーって後悔してる時間もない。

無駄な時間をすごすと後悔する時間まで利子のように加算されていくからそれも嫌なのだ。時間以外にも後悔している時点で黒い気持ちが出ているし。

 

でもそう思ってもチャットをやってしまうのはたぶん、自分以外にも自分と同じような気持ちを抱えて叫んでいる人間がいるはずで、そういう叫びを聞いてやりたい、共鳴したいと思うから(あるいはこっちが叫べば相手が共鳴してくれるのではないかという期待)で、自分はそういう風にネットにいる他者に対して期待を抱きすぎている。

これが目に映る他者なら見下しがちなのに、ネットの、匿名の他者になると巨大な存在のように感じるから厄介だ。

叫び は重視したい要素だが、それを探す手段は冷静に考えなくてはいけない。

全て熱では押し通せないのが現実の人間だ。

そのことを意識しないと自分はいつまでも匿名の他者に期待し続けて、無駄な時間を食う羽目になってしまうのだ。

 

自分のドッペルゲンガーのような存在がいるとどこかで期待している。

もし自分と同じなら自分と同じように情けないはずなのに、それを考慮しないのだ、自分は愚かだから。

 

また、自分は、チャットをしているとき、自分の頭の中にある言葉を、他者に言わせたいようなだけの気がする。

自分と同じ人間にあいたいということは、自分の脳内にあるようなことを、わざわざ他人の口から発してほしいということだ。

それは一時的な自画自賛的な気持ちよさはあるかもしれないが、長続きしない。

そいつがいなくなったら瞬時に消えるような気持ちよさで、それはクソだと思う。

(余談だし、クソとかいっておいてあれだけど、日本にチャットの大規模な、1000人くらいが常時ログインしているようなサイトがないのは謎だ)

 

あとは 前へ。って感じ

 

 

 

 

 

 

 

 

小説的生き方、マンガ的生き方

小説は、文章以上のものを、どう読者に想起させるかが重要な表現形態だと思う。
対して、マンガは、絵と文を用いて、書いたままの作品をそのまま見せて、できるかぎり「そのまま」を受け取らせる表現形態。

だから、小説で面白いと言われているものは、あまり自分にとって面白く感じられないこともあるけど、
マンガで面白いと言われている作品は、読んでみるとやっぱり面白いものが多い。

これは、マンガが自らの内容を そのまま 見せているため、評価が一致しやすいからだと思われる。

小説は、読む人によって、価値を留保し続けることができると思う。
また、知的な雰囲気さえ漂わせれば、勘違いした人間が勝手に評価してくれるものだ。

自分は、今まで小説的な生き方をしていた。
価値を留保させて、そのままを出し切らない。
相手に委ねて、 とりあえず自分は、 こうだ と見せつけることを避けていた。

マンガ的生き方が、自分にとって良いのだと思う。
そのままを見せる。
自分の実態と評価を一致させる

現代にはマンガ的生き方をする人が増えたと思う。
考えられないくらい愚かなことを、発信したりする。
その結果ツイッターで炎上とか。

でも、そのような人々は、愚かな実態と、その評価が、一致しているという面で、誠実だ。

何も表現せずに、ただ、そういった突出した愚かさにのみ評価を加えて、自分のことは留保し、それに安心できる不誠実さ(この時代の空気)に、自分はそろそろ耐えられなくなっているのだと思う。

潜熱への意志 沈潜

熱い何かが心の中にないと、あることでダメージを受けた時にそのダメージが直接「生きる力や意志」のようなものを減らしてしまう感じがある。

感情の解放と熱さ
思えば自分は、感情を抑圧してばかりだ。
社会や他人を、自分より優れたもの、自分を評価するものだと考えていたから、その社会や他人が求めていそうなものを追いかけていた。さすがに、広告業界的な言説とかは歯牙にもかけなかったが、例えば作業的な何かをやるときなどは、相手の価値観で動いていた。
自分の価値観を明け渡してしまうという感じか。

だから自分は、勝手な行動をとるのがどうも苦手なのだ。
相手の言っていることを守ろうとして意固地になって、それが結局変な行動になってしまうことはよくあるが、自分勝手にやってやろうと志向して何かやり始めるということを意図的に避けていた。

自分にとって、健全な生き方とは何なのかを自分はずっと、探している。探しているくせにしょっちゅう他人に価値観を決めさせている。この矛盾

人前で表現や価値観を主張するのを避けていた結果、自分の中での意志的な何かが消えてしまったのだと思う
自分にとっての愉快なものを追いかけないと、遅かれ早かれ精神がおかしくなる
そしてその愉快なものを追いかけるための原動力になるのが、意志あるいは熱さなんだ

自分の価値観を守ること

一人称を「自分」にした。僕 や オレ だと、後続する文章も、僕 オレ にそれぞれ引っ張られて誇張につながると思ったからだ。そこでふざけて、また小林よしのりに影響をうけて ワシ とか言ってたけど、やはり 自分 がもっともニュートラルな言い方だと感じた

損をすることを恐れて、人生全体をダメにしてしまいそうな自分がいる

損得を超える熱さ それを大事にしたい

自分はどうやったら不安から逃れられるか から

自分はどうやったら熱くなれるか へ

内側に潜んだ熱で不安を凌駕するイメージを持ちたい

そうした熱、潜熱 の標準の温度を上げていく。

自分の意志を育てること

そのためには、他人の価値観に振り回されないことが重要だ
自分は、関係ない誰かの声を全部聞いてしまうマジメで愚かな人間だ
ネットなどをやるべきではない存在なのかもしれない。しかし、表現の場所を求めているのも事実

沈潜して考える。
誰の声の届かない場所へ

普通のこと

昨日書いた話にもちょっと関連するんだけど、加藤の秋葉原通り魔殺人事件について考えた。

ザ・ノンフィクションでやっていたからね。

加藤は、3回くらいトラックで突っ込もうとして、やめていたらしい。そんで4回目くらいに突っ込んで、降りて、ナイフ殺しまわった。

 

ナイフを買うとき、世界観を変えてくれるような出会いがあれば、事件はおこらなかったんじゃないだろうか。

追い込まれた人間は、世界観を変えるような出会いを求めている。

それは、簡単なので言えば、救いの女神のような女性であったり、違う世界をみせてくれる友達であったり。

結局、他人に頼るしかないのだ。精神的に追い込まれたら、自分で自分は治せないだろう。

直接的な他人との触れ合いではなくても、たとえばある物語をきっかけに、自分を変える人もいる。

そういう人も、物語をつくった他人に、助けてもらっている

自分を生かすも殺すも、他人が関わっているということだな。

 

ワシは、物語は信じるけど、他人は信じない、という矛盾したスタンスをとっていた。でも、物語の裏には必ず他人がいる。当たり前だが。

また、ワシは何かを熱く語りたいという欲望もある。ワシが、というより、社会がそうなってほしい。そして、それが当然の社会に参加してみたい。

 

また、ちゃんと、安心して生きるには、自分で自分を肯定したり、評価したりしないとダメだろう。

相手に褒められて、初めて自分を評価する、という方法でもいいが、ワシのような人間は相手に褒められることが少ないので、そこを他人に任せるのではなく、自分のフィールドにするのが大事だ。

 

難しい、他人を信頼することと他人の言葉を真に受けないこと。

他人の表情や、言葉を真に受けないプロセス。

考えていくしかないんだろう。