匿名の他者への愚かな期待・自分の脳内にあることを他人に言わせること

ブログ名を変更できることを知ったので変えた。

 

やはり自分はツイッターで、短い文章の中で読み込まれることは納得がいかない人間なので140文字に縛られないほうが好きだ。

全部出し切りたいのだ。

出し切りたいと聞くと精子を思い出す。

スポーツ選手のセックスがすごいらしい聞くと、なんかやりきれない気持ちになる。自分は負けてしまうと思うからだろうか。

感傷に浸りたくないものだ。

 

チラシの裏に書けば良いことを、自分はわざわざネットでやるわけだけど、それはいい意味の緊張感があるからだろう。

自分にうそをつきたくないという意味ではチラシの裏・見せなくてもいい文章 を貫きたいけど、それだと救いがない。

刺激がない。

どんどん暗くなってしまう気がする。

暗さを排除するために他人が見ているという可能性を残しておくのは良いことだ。

 

自分はよくチャットをやってしまう。

これは悪い癖だと思う。時間ばかりとられるからだ。

卒業論文とかを書かなくてはいけないのだから、無駄な時間をすごしてアーって後悔してる時間もない。

無駄な時間をすごすと後悔する時間まで利子のように加算されていくからそれも嫌なのだ。時間以外にも後悔している時点で黒い気持ちが出ているし。

 

でもそう思ってもチャットをやってしまうのはたぶん、自分以外にも自分と同じような気持ちを抱えて叫んでいる人間がいるはずで、そういう叫びを聞いてやりたい、共鳴したいと思うから(あるいはこっちが叫べば相手が共鳴してくれるのではないかという期待)で、自分はそういう風にネットにいる他者に対して期待を抱きすぎている。

これが目に映る他者なら見下しがちなのに、ネットの、匿名の他者になると巨大な存在のように感じるから厄介だ。

叫び は重視したい要素だが、それを探す手段は冷静に考えなくてはいけない。

全て熱では押し通せないのが現実の人間だ。

そのことを意識しないと自分はいつまでも匿名の他者に期待し続けて、無駄な時間を食う羽目になってしまうのだ。

 

自分のドッペルゲンガーのような存在がいるとどこかで期待している。

もし自分と同じなら自分と同じように情けないはずなのに、それを考慮しないのだ、自分は愚かだから。

 

また、自分は、チャットをしているとき、自分の頭の中にある言葉を、他者に言わせたいようなだけの気がする。

自分と同じ人間にあいたいということは、自分の脳内にあるようなことを、わざわざ他人の口から発してほしいということだ。

それは一時的な自画自賛的な気持ちよさはあるかもしれないが、長続きしない。

そいつがいなくなったら瞬時に消えるような気持ちよさで、それはクソだと思う。

(余談だし、クソとかいっておいてあれだけど、日本にチャットの大規模な、1000人くらいが常時ログインしているようなサイトがないのは謎だ)

 

あとは 前へ。って感じ