おはなし ゆらゆら

ボクは絶望していた。
自分に自信のかけらもなかった。

中学の時、いじめられた。死にたかった。
高校の時、人が怖くて、誰ともしゃべれなくなった。
勉強だけしてたら、結構偏差値の高い大学を狙えるようになった。
なにもしたくなかったから、そのまま勧められた通りに大学受験をして、受かった。

だけど、ボクは知っていた。
ボクの未来には何もない。

甘かった。
想像以上に、ボクは何もない人間だった。
ボクは、未来がないといいつつ、アルバイトしてテキトーに過ごすくらいはできるだろうと思っていた。
でも、できなかったんだ。

「使えねぇな」 「頭おかしいんじゃねぇの」 「もういいよお前」

嘲笑と、侮蔑の表情とともに、そういう言葉が、働いていると降り掛かってくる。

うまく働けない人間は、いじめられているように感じる。多くの人が、不器用な人間は傷つけてもいいと思っていることを、ボクは再確認した。
アルバイトとして働くたびに、いじめられた過去を思い出す。
苦痛で仕方なかった。

社会は完全にボクを必要としていないように思えた。
大学には友達が一人もいなかった。いるわけがなかった。

ボクは気づけば大学四年生になっていた。
内定はない。
このままニートになるのだろうか。
もうどうでもいいか。

働くのを嫌に思う思考を消したくて、派遣のアルバイトをやろうと思った。
集合場所で、周りの人をそれとなく観察していると


「あ……」

ボクは自分の名札を忘れたことに気づいた。顔写真いりの名札がないと、働いても給料がもらえない。そういうシステムだと説明のとき言われた気がする。

「あー、残念。じゃあ今日はキミ帰って」

忘れたことを説明すると、そう言われた。
今日は朝五時に起きて、深呼吸とかいろいろして、仕事に対する嫌な感情を振り払おうとしていた。
帰りの電車で時計を見ると、まだ朝8時だった。

ボクはマヌケだ。
急に、涙が出てきた。

何をやっているんだろう。ボクは、何のために生きているんだろう。仕事をせずにすんで良かったとどこかで思っている自分に気づいて、もう本当にダメなんだなと思った。

ボクは誰とも繋がっていない。
そのくせ、外に出ると、真面目なフリをして、失礼のないように気をつけている。
(そのくせさっきのような忘れ物が多いのだ!)
誰に対してだろう?
世界は、ボクのこの振る舞いに対して、少しでも答えてくれただろうか?
もちろん、これは見返りを求めるというより、他人に対する怯えによって形成された態度でもあるが、だからといって、一般的な人間より気をつけて生きている自分が、全く報われないのは、理不尽すぎると思った。

そう、ボクはだれとも繋がっていなかった。
大学の楽しそうな連中が羨ましくて仕方なかった。
あいつらは、ボクよりも気をつけて生きているか?
ボクより苦労しているか?

不意に、怒りが出てきた。
今までもジワジワと怒りはあったが、今度は今までと違っていた。
体の中の不安が、すべて怒りに変わってしまったように思えた。
涙も出てきた。

そうだ。
学園祭。
来週、大学の学園祭がある。

ボクはそこで、人を殺そうと思った。
幸せそうな学生を、テロのように。
自分の苦しみを、他人に味わわせないといけない。
今まで不安定だった心が、それを決心すると、ピッタリと自分に「はまった」気がした。

ああ、この感覚が、安心とかに近いのかもな。
今まで溜まってきた悲しみ、悔しさ、やりきれなさ、その他諸々が、殺意によって統一されはじめていた。

どんな風に人を殺そうか。
そのときのボクは、本当に、何年か振りに、高揚感を得ていた。

あいつらが悪い。あいつらは、何も悩みがないくせに、ボクを馬鹿にするような視線をよこし、自分だけ楽しんでいるのだ。

ナイフを買おうと思った。
やっぱり、ナイフで切りつけて回るのが、一番人を恐怖に陥れることができるのではないか。

幸い、そういうものが揃ってそうな店が、自宅近くにあった。

店に入った。
様々なナイフがあった。ボクはよくわからなかったので、店員さん聞こうと思った。
「あのぉ…」
女の店員さんに背後から声をかけた。
彼女がこちらを向いた時、なぜかボクはそのスピードが現実よりかなりゆっくりに見えた。

とても可愛らしい店員さんだった。
背は小さく、黒髪で、目がおおきくて、どこか儚げ、そういう感じだった。

「はい」

「あ………」

「なんでしょうか?」

そう聞く顔も、とても可愛らしかった。ボクは、こんなに魅力的な人がこの社会に存在していることを知らなかった。

「あ………ナ、ナイフ……一番大きくて……一番切れるナイフって…」

「そうですねー、何用ですか?」

「何用……あの…獣の皮を切ったり…」

「え、ワイルドですね」

そう言って彼女は笑った。

その笑顔は、ボクが考えていた嫌な世界を、優しく否定してくれるようだった。

なぜだか涙がでた。

「あ!お客様!!どうしました!!?」

そう言われて初めてああ、泣いてしまっているんだ、と気づいた。

「いや、なんでも…、なんでもないです…あの、ありがとうございます…本当に…」
ボクは急いで涙をぬぐった。

「いえ……大丈夫ですか?」

そういう彼女は本当に心配しているようだった。

「あ、あの、本当に大丈夫です……あの!」

「はい!!」

彼女は驚いた。

「獣とか切るのって、やっぱり…かわいそうというか…おこがましいですよね…」

「いえ……そんなことは…色々な趣味がありますから…どこに行かれる予定ですか?」

「あ………山……とかです。」

「山ですか…これから寒くなりますからね……」

彼女は会話を止めてしまった

「あ……あの!!!ボク、やっぱ獣とか、切るのやめます!!……また来てもいいですか!?」

「は、はい…いいですよ?」

彼女はちょっと困惑したような顔で、笑っていた。

どうしよう、怖がらせてしまっている。

でも、もう一回ちゃんとした笑顔が見たい、そう思った。不思議だけど、そのときのボクは、過去の嫌なことから解放されて、それだけしか考えていなかった。

「あのぉ!!!」

「はい!!」

「笑顔が……とても素敵だ…と…思いました……」

「…」

ボクは、生きてきてその時はじめて、直接女性を褒めた。

「って……気持ち悪いですよね……あ、ボクがです。ボクが、気持ち悪いってことで…あなたはとても素敵というか……」

「ありがとうございます」

彼女は笑っていた。


ボクは走って出ていった。
あんなかわいい人としゃべった!
あんなかわいい人としゃべった!
なんでしゃべれたんだろう?

店から離れて、そう言えば、ナイフ買うためだったんだ、と思い出した。
また数歩歩いて、財布を家に忘れていたことに気づいた。ボクはマヌケだ。どっちにしろ買えなかったんだ。

あの店、アルバイト募集しているかな。
あそこで働いてみようか。
明日になったら、この気持ちも薄らいでしまうかな。
でも、今日だけは、たしかに悪くないと思えたんだ。

本気と許容 立ち止まる場所

ワシは、というより多くの人がそうだと思うが、何かに本気になればなるほど、許容できる範囲が狭くなる。
本気になるほど苦しく、悔しい。

たとえば、東京大空襲や原爆について、戦争だから仕方なかった、とその程度で済ます人間にイライラするし、同時に羨ましい。ワシはそのことについて、チャットで議論した。
戦争だからといって、非戦闘員が生活している場所を狙って爆撃したり、原爆を落としたりしていいはずがない。そんなことを許したら、もうなんでもありだ。国際法の存在意義がなくなる。東京裁判で裁かれた軍人たちは何のために裁かれたのか。
どこまでアメリカの価値観に染まっているんだ。

そういうことを思って、悔しくて仕方ない。
相手は、大して知識もないのに、戦争だからとクールに割り切ればカッコイイと思っているような、戦後民主主義の悪いところを地で行くようなどうしようもない人間だった。

たぶん、そいつは今日起きたら昨日の会話は忘れている。そのほうがいいのだろう。生きていくには無駄なことを忘れることが重要なんだから。

自分が思い描くような世界よりも、自分が忌み嫌う人間のほうがのうのうと生きていけるという現実。
生きていくたびに絶望する。
でも、絶望で止まっていたら終わりだ。
なんとか突破したい。

本気になればなるほど損なのだろうか。割り切っていけない人間は、本気になるべきではないのか。
余計なストレスを減らすために、嘘をついて生きるのか。
ワシは、悲しいことに、そんなのは間違っていると言うことはできない。なぜなら、ワシは、不満足の連続のごとき人生を送ってきたから。思考は常に本気であるにもかかわらず。

振り返りながら生きているからだめなのだろうか。本気であっても。
本気で前を向いて生きるべきなのか。
ワシはわからないことだらけだ。
かといって、感傷的になってもいいことはひとつもない。
どう生きるべきなのか。どういう思考で自分を支えるのか。

マイナスのところで立ち止まったらダメなんだろう。
あと一歩だけ思考を進ませて、いい部分で立ち止まる。
悔しさで立ち止まるな、絶望で立ち止まるな、怒りで立ち止まるな。
そこで立ち止まったら、いくら考えても身を滅ぼす。

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言葉・並列・抽出

不要な言葉を受け取って真面目に考える人と、考えない人がいる。
不要な言葉を考えないことは、正しい。
不要な言葉も、並列化して、考えるべき言葉とごちゃごちゃにする人間は、愚かだ。

そのうち、不要な言葉をいちいち考えてしまうときの、あの感じ に耐えられなくなって、考えること自体が嫌になる。

不要な言葉を考えた時、ワシは緊張する。緊張はすべてを奪う。人生の満足感は、いかにその人が無駄な緊張をしなかったかにかかっていると思われる。

必要な言葉を、抽出すること。真面目にすべてを評価して、すべてにそれなりの答えを用意するのをやめること。

むしろ、ほとんどの言葉には考える価値はない。
僕が考えた文章も、ほとんどの人はまともに取り扱わないし、そうあるべきで、それが健全な姿だ。

抽出して、のこりは捨てる。

自分を疑え?

今日から1日に1記事は書いていこう

自分を絶えず疑うことが重要、そういう人間が結局は慕われたり、成功するとか、よく言われている。

嘘をつくな、と思う。

そんな人間はまず信頼されない。いつも疑いがちでビクビクしているような人間のもとに人は集まらない。

程度の問題だ、と思われるだろうか。では、その線引きは結局勝手にやっているのだ。その根源的な勝手にやっているところには疑いを向けないのか。
そういうところが思考の根源なのではないか。
疑うことの対極のような思考だ。

しかし、結局そういうふうに、疑わずに生きたほうが正しいのだ。
疑ってみることが大事、ということを中途半端にやっているやつが、そんなことを声高に言うのだ。
ふざけるな。

疑ったらダメだ。自分を信じなきゃ何もできない。働くことができなくなる。細かい意思決定ができなくなるからだ。

弱い人間達よ、自分を疑うな。

自分を疑う人間は自信を失い、そこから全てを失うだろう。

ズレ、ふざけ、熱心、チンポ

なんだこのふざけたタイトルは、と思った人もいるかもしれない。

しかしワシは本気だ。

私は、脳すっからかんで広告業界的な言葉に永遠にふりまわされている大多数のふざけた女を心底見下しているが、どこかで羨ましいと思う気持ちがある。

あんなふうに軽く生きられたらそれはそれで正しい人生だ。

悩みは力になるというが、あんなことは大嘘である。悩まないほうが良いに決まっている。

 

ふざけたほうがいい。脳を真剣にさせると、自動的に負けてしまう人がいるだろう。

緊張の網というか、そういうものに引っかかって、身動きが取れなくなる。

緊張感をずらして、外すような手続きを踏むのがよさそうだ。

この「意識的にズレる、ズラす」というのが大事だ。

 

ワシは過緊張人間だ。「ちゃんとやらなくてはいけないシーン」は、「緊張しなければいけないシーン」ではないのに、ワシは、何か労働じみた作業をしようとすると、異様に緊張する。

緊張することで、まわりに「ワシはちゃんとやっている」というメッセージを発信し、それを失敗の免罪符にしようと無意識で思っているのかもしれない。

ならばそれを意識的に感じて、否定してやらねばなるまい。

熱心に何かをやることは、緊張することではない。熱心さの中にも遊びがある。

この世に 真面目にやったほうがよいこと はなく、あるとすれば、熱心にやったほうがいいこと があるだけだ。

真面目という言葉がワシの中で客観的な真剣さを見せるような、ポージングのための言葉のように感ぜられるからだ。

対して、熱心 は主観的だ。不真面目だが、熱心にやることが、最もよい心構えだと思われる。

そして熱心さの中にはもちろん遊びがあり、緊張はない。

たとえるなら、エロ動画を探しているときの感覚とでも言おうか。

だれかに見せる真面目さではない。主観的に、楽しみたい熱心さだ。

 

たとえばワシは、今度なにかに追い込まれたとき、頭の中にリアルなチンポを思い浮かべようと思う。

チンコではなく、チンポである。

なぜそのようなふざけたことをするのかといえば、意識的にずらすためである。

チンポやウンコが救いになることもある。

 

 

女は死んだ

ツイッターでも言ったけど、飯やお菓子をわざわざスマホで撮るような人が増えて、ワシは、呆れている。

本来カメラなんてしょうもないものだと思う。ベンヤミンは芸術作品にやどる一回性をアウラ(オーラ)と言ったが、それはコピーするとなくなるものだ。
カメラなんて風景という芸術の一回性を完全に壊すもので、自然の摂理に反する。これによって一回性がなくなってしまった。
まぁそれは仕方ない。カメラによって恩恵を受けることもあるだろう。

しかし、カメラで風景のみならず食べ物をとる女が増えすぎている。
やつらはもはや畏敬の念をもって撮っているのではない。
snsで自慢したい、これのみで生きているのだ。

スマホのカメラを覗き込むやつらの目は誠に醜悪である。一緒に食べるだれかのことを完全に忘れ、頭の中にはsnsでどういう文章を添えようか、そんなことばかりである。
彼女らの虚ろな目がそう言っている。

ワシは、そうした虚ろな目でスマホを覗き込む女性を見るたびに、(古き良き)女性はもう死んでしまったのだな、と思い、涙が流れるのをこらえるのである。

こういう細かい絶望が積み重なって、どんどん晩婚化が進むのだとワシは思う。

せめて、不真面目に生きろ


僕はいわゆる真面目人間として生きてきた。傍から見れば真面目だ。悪いこともしない、女遊びもしない、髪も黒い、敬語も使える。

しかし、私は真面目な人間はいるのか、と思う。
真面目な人間は臆病なだけだ。

悪いことをしないのは、悪いことができないからである。だからこれは偉くもなんともない。やりたい、という気持ちと戦っていないのだ。葛藤がなく、ただフツーに生きていたら悪いことをしなかっただけだ。

話は飛ぶが、違法薬物はダメ、とかいうのも全然説得力がない。
追い込まれていない人間が言っても、意味がない。
だってそいつは、違法薬物をやりたい、という欲望と戦ってきてないから。なんの葛藤もない、選択して生きていない人間に、道徳を語る資格はない。

話を戻す。
時間を守る人は真面目だろうか。
遊ばない人は真面目だろうか。

断じて違う。

時間を守る人は、時間を守らないことで怒られたり、周囲に変な目で見られることを恐れているだけだ。

遊ばない人は、遊び方を知らないだけだ。家でオナニーしかやらないのである。

近頃 真面目系クズ、という言葉を聞くようになった。
これはやや的を射ているが、もっと言えば、
真面目=クズ だ。

突然だが、僕は仕事が全然できない。

このことで大学生活を棒に振った。
しかし今思えば、これは、自分が真面目だと思っていたから、こんなに真面目に生きてきたのになぜこんな苦しみを味わわなければいけないんだ、
と思っていたからこそ辛かったのだ。
報われないのはおかしい、という怒りが根底にあってどうにもならなかった。
なぜなら僕は、高校時代は全く遊ばずにほとんど勉強しかせずに過ごしてきたからで、そんな僕を周囲は真面目だととらえた。
ピグマリオン効果とでもいおうか、僕は自分を真面目だと思ってしまったのだ。
そして、真面目な人間は報われないとおかしい、と思ってしまった。

今になって思えば、真面目=クズなので、クズが報われるわけがない。
僕は勉強することは真面目だとベタに思っていたが、高校時代は遊んだり、友達を増やしたり、色々な人間関係を通して価値を相対化していくほうがよっぽどその後の人生の役に立つ。
こんなのは当たり前だが、まぁ当時もそう思っていたけど、何故か自分が最も真面目だと思っていたのだ。

僕は遊び場を知らない。女の子のことも全然知らない。
ファッションも、旅行も、そういうのは軽佻浮薄なものとして、片付けていた。
知っているのは大学付近の油そば屋だけである。

こんな人間のどこが真面目なのか。
僕は不真面目で、色々なものをサボり倒して、その結果精神科とかに行っていたのだ。
滑稽すぎる。

軽佻浮薄なものは、ほとんどの人は、そう感じているのだ。頭がクルクルパーな一部がそれをリテラルに受け止めているのだろう。
だけど、みんな新しい価値を作るのが面倒だから仕方なくそれにノッている、そう思いたい。
それに、僕は軽佻浮薄なものを見ても、別に真正面からそれを批判したりしない、つまんないクズみたいな人間だ。もし、自分の人生に真摯に向き合うのなら、手当り次第に、
てめぇらは広告業界的な言葉に洗脳されているだけだ!
と喧嘩をふっかけるべきなのだ。
そしたら意外と賛同を得られるかもしれない。
でもそうはしない。

なぜなら僕は真面目=クズだからだ。

だから最近は、せめて不真面目になろうと思う。
できるかぎり優先席に座りたいし、ゴミは分別しないし、女の店員にはタメ口を使いたい。

そうなれば、自分は不真面目なのだから、そんなに良いことがなくても仕方ないじゃん、と思えるから