彼女・武士の価値観・リア充・男の女化

僕は一般的な感覚からズレてしまっているかもしれないので、僕にだけあてはまることを断言したりします。

僕には彼女がいない。いたことがない。

彼女は必要であろう。
なぜなら、頼るものがいないと、よりかかれるものがいないと、人はバランスを失うからだ。精神的に。

だがこれは一面的な見方だ。
この見方には、頼られてもオーケー、という前提がある。あるいは、頼られることもあるということにすら気づいていない見方だ。
僕は頼られたくない。

僕には彼女ができそうにない、というかあきらめている。オナニーで十分すぎる。

まず、女の趣味【スイーツ、ファッション、おしゃれななにやら】にまったく興味がないし、様々なところで見聞きした女はクソという意見や、他人であるときが一番興奮してしまう心性も、彼女を作りたくないと思う原因だ。
だから、必死になっているやつを見てると、怒りを通り越して、微笑ましくなる。

しかし、微笑ましい状態を通り越すと、またイライラしてくる。

なぜ、もてようとすることに多くの人間はそんなに前向きになれるのだろう。

僕も、友人の前では、建前上「彼女ほしいなー」とか言ったりするけど、これはおふざけであり、会話のつなぎであったりする。

他人であるときが一番興奮するということについて説明しておくと、例えば、僕の興奮するタイミングは電車の正面にかわいい子が立っていたりするときだ。

大抵の人は、かわいいと思った人とは仲良くなりたいのだろうか。
だが僕は、知らないままの時が一番いいのだ。
仲良くなったら終わりの始まりだ。
どんどん、新鮮さがなくなっていくだろう。
だから、僕は電車の中で、知らない人とセックスするのが夢である。

これは、イメージに対して、自分がかなり信頼を置いてしまっていることが原因かもしれない。つまり、自分が最初に直感的に判断した、対象へのイメージを、裏切られたくないのだ。こういうところが、マイナスイメージの信頼も増加させて、精神を悪くしてしまうのだろう。あとフツーに、話してみて嫌われていくのが嫌だったり、単純に話すことがないということで、接触を嫌っているのかもしれない。
フィクションとの距離の置き方にも似ている気がする。
完全にコミットして、対象に悪影響を与えてしまうのは、不遜な行為だと思う。
対象と自分を分離しておきたい。

話すことがないのだ。
基本的に女を見下しているので、また、見下しつつ恐れているので、余計に話すことがない。

また、見下している対象に対して、努力とかしたくないのだ。
お前が来いよ、とも思う。

こういうふうに言うと、プライドが高いとか思われそうだが、ただ武士的な価値観でいるだけだ。

そして、あまりにもそれが、当たり前の感覚としてあるので、それを変えたくないし、変えるのは至難の業だ。

僕は、武士的な価値観が軽視され、敬称浮薄な人間が跳梁跋扈する現代に怒っているのだ。
だからオレはどっちかというと保守的だ。

つまり、何が言いたいのかというと、

恋愛を軸とした価値観の形成をやめろ!!!
ネットもネットで、クリスマスやバレンタインの中止のお知らせ、とか、紀元前に絶滅したようなギャグを言い続けるのをやめろ!!!
リア充」という定義の多くを恋愛による充実 に割くのをやめろ!!!!

ネットは保守的な【武士的な】文化が残っていると思っていたときもあったが、恋愛至上主義を逆説的に支えているのは、「リア充【恋愛充】爆発しろ!【羨ましい】」という価値観を広く発信させている2ちゃんねらーである。
そいつらが、恋愛文化に見向きもしなければ、余計な価値観が拡散しないで済むのだ。

そこまでネットは力を持っていないと思うだろうか。
いまや、大学生のほとんどはまとめサイトを見ているし、「2ちゃんで~」という言説は広く使われるようになっている。

やはり、男が女化してきてしまっていると思う。それは、くだらないサブカルチャーの影響で、女視点の物語が数多く生まれ、それにのめりこむために、女性の価値観を内面化する輩が増えてしまったからではないか。結局は、アニメ好きは恋愛好きになってしまったのである。恋愛の要素をそぎ落としているブタアニメは少ない。

そしてそんなブタ野郎は、女的な、「私もあんなことをして【されて】みたい」という、フィクションと現実をごっちゃにした欲求をもち、しかしできないので、「リア充爆発しろ!」にいたるのである。
もちろん、ブタアニメが好きなブタ野郎どもが個人的にそんなに力を持ったわけではないが、それを、文字にしてネットに表明した場合、個人の情けなさは切り離され、文字の威力だけが一人歩きを始める。

ではなぜ僕は「彼女ほしいなー」と、会話のつなぎでも言うのかといえば、この世界のどうにもならなさを嘆いているのであり、「恋愛なんて必要ないだろ」と声高に言っても、それを文字にしない限り、雰囲気という暴力で一笑に付されてしまうことがわかっているからである。