潜熱への意志 沈潜

熱い何かが心の中にないと、あることでダメージを受けた時にそのダメージが直接「生きる力や意志」のようなものを減らしてしまう感じがある。

感情の解放と熱さ
思えば自分は、感情を抑圧してばかりだ。
社会や他人を、自分より優れたもの、自分を評価するものだと考えていたから、その社会や他人が求めていそうなものを追いかけていた。さすがに、広告業界的な言説とかは歯牙にもかけなかったが、例えば作業的な何かをやるときなどは、相手の価値観で動いていた。
自分の価値観を明け渡してしまうという感じか。

だから自分は、勝手な行動をとるのがどうも苦手なのだ。
相手の言っていることを守ろうとして意固地になって、それが結局変な行動になってしまうことはよくあるが、自分勝手にやってやろうと志向して何かやり始めるということを意図的に避けていた。

自分にとって、健全な生き方とは何なのかを自分はずっと、探している。探しているくせにしょっちゅう他人に価値観を決めさせている。この矛盾

人前で表現や価値観を主張するのを避けていた結果、自分の中での意志的な何かが消えてしまったのだと思う
自分にとっての愉快なものを追いかけないと、遅かれ早かれ精神がおかしくなる
そしてその愉快なものを追いかけるための原動力になるのが、意志あるいは熱さなんだ

自分の価値観を守ること

一人称を「自分」にした。僕 や オレ だと、後続する文章も、僕 オレ にそれぞれ引っ張られて誇張につながると思ったからだ。そこでふざけて、また小林よしのりに影響をうけて ワシ とか言ってたけど、やはり 自分 がもっともニュートラルな言い方だと感じた

損をすることを恐れて、人生全体をダメにしてしまいそうな自分がいる

損得を超える熱さ それを大事にしたい

自分はどうやったら不安から逃れられるか から

自分はどうやったら熱くなれるか へ

内側に潜んだ熱で不安を凌駕するイメージを持ちたい

そうした熱、潜熱 の標準の温度を上げていく。

自分の意志を育てること

そのためには、他人の価値観に振り回されないことが重要だ
自分は、関係ない誰かの声を全部聞いてしまうマジメで愚かな人間だ
ネットなどをやるべきではない存在なのかもしれない。しかし、表現の場所を求めているのも事実

沈潜して考える。
誰の声の届かない場所へ