せめて、不真面目に生きろ


僕はいわゆる真面目人間として生きてきた。傍から見れば真面目だ。悪いこともしない、女遊びもしない、髪も黒い、敬語も使える。

しかし、私は真面目な人間はいるのか、と思う。
真面目な人間は臆病なだけだ。

悪いことをしないのは、悪いことができないからである。だからこれは偉くもなんともない。やりたい、という気持ちと戦っていないのだ。葛藤がなく、ただフツーに生きていたら悪いことをしなかっただけだ。

話は飛ぶが、違法薬物はダメ、とかいうのも全然説得力がない。
追い込まれていない人間が言っても、意味がない。
だってそいつは、違法薬物をやりたい、という欲望と戦ってきてないから。なんの葛藤もない、選択して生きていない人間に、道徳を語る資格はない。

話を戻す。
時間を守る人は真面目だろうか。
遊ばない人は真面目だろうか。

断じて違う。

時間を守る人は、時間を守らないことで怒られたり、周囲に変な目で見られることを恐れているだけだ。

遊ばない人は、遊び方を知らないだけだ。家でオナニーしかやらないのである。

近頃 真面目系クズ、という言葉を聞くようになった。
これはやや的を射ているが、もっと言えば、
真面目=クズ だ。

突然だが、僕は仕事が全然できない。

このことで大学生活を棒に振った。
しかし今思えば、これは、自分が真面目だと思っていたから、こんなに真面目に生きてきたのになぜこんな苦しみを味わわなければいけないんだ、
と思っていたからこそ辛かったのだ。
報われないのはおかしい、という怒りが根底にあってどうにもならなかった。
なぜなら僕は、高校時代は全く遊ばずにほとんど勉強しかせずに過ごしてきたからで、そんな僕を周囲は真面目だととらえた。
ピグマリオン効果とでもいおうか、僕は自分を真面目だと思ってしまったのだ。
そして、真面目な人間は報われないとおかしい、と思ってしまった。

今になって思えば、真面目=クズなので、クズが報われるわけがない。
僕は勉強することは真面目だとベタに思っていたが、高校時代は遊んだり、友達を増やしたり、色々な人間関係を通して価値を相対化していくほうがよっぽどその後の人生の役に立つ。
こんなのは当たり前だが、まぁ当時もそう思っていたけど、何故か自分が最も真面目だと思っていたのだ。

僕は遊び場を知らない。女の子のことも全然知らない。
ファッションも、旅行も、そういうのは軽佻浮薄なものとして、片付けていた。
知っているのは大学付近の油そば屋だけである。

こんな人間のどこが真面目なのか。
僕は不真面目で、色々なものをサボり倒して、その結果精神科とかに行っていたのだ。
滑稽すぎる。

軽佻浮薄なものは、ほとんどの人は、そう感じているのだ。頭がクルクルパーな一部がそれをリテラルに受け止めているのだろう。
だけど、みんな新しい価値を作るのが面倒だから仕方なくそれにノッている、そう思いたい。
それに、僕は軽佻浮薄なものを見ても、別に真正面からそれを批判したりしない、つまんないクズみたいな人間だ。もし、自分の人生に真摯に向き合うのなら、手当り次第に、
てめぇらは広告業界的な言葉に洗脳されているだけだ!
と喧嘩をふっかけるべきなのだ。
そしたら意外と賛同を得られるかもしれない。
でもそうはしない。

なぜなら僕は真面目=クズだからだ。

だから最近は、せめて不真面目になろうと思う。
できるかぎり優先席に座りたいし、ゴミは分別しないし、女の店員にはタメ口を使いたい。

そうなれば、自分は不真面目なのだから、そんなに良いことがなくても仕方ないじゃん、と思えるから