ツイッターをアンインストール

ツイッターをアンインストールした。もう自発的にも見ないだろう。
今思えば、意味がわからなかった。
自分は、リアルな自分が見られることが、嫌なのだ。
不快感をもってしまう。

ツイッターなんてなんの役にもたたん。

見られることから自由になる。

フェィスブックはつまんなそうだから最初から興味なかったが、ツイッターは面白い人がいる。

それだけはちょっとだけアンインストールしたあともパソコンなどで見ていこうと思う。

ツイッターで、自分は楽しいということを表現しなければいけないのが嫌だ。

熱く語っても誰も反応してくれなさそうなのがいやだ。

みんなが同じようなことを言っていて、同じような行動の報告をして、ラーメンとかスイーツの写真をあげているのが嫌だ。

何が楽しいんだ。

溺れない程度の承認か。

シークエンス

自分は、他人の評価でほとんどのことを決めてしまっていて、挙句の果てに自分の思考、感情、行動も他人の基準から外れないようにしてしまった。
そうなると、そこから抜け出すには他人を引き離す作業が必要になる
もっと、大学生活を楽しみたかった
今更どうにもならないが
自分でどんどん決めていくことができなければ、混乱状態に陥る
その混乱の中で自分で決める力が備わればいいのだけど、自分の場合、それがずっとできてない。
解決策も他人が見て格好いいかどうか、とかで考えている節があるから

その状況を変えるには、他人を見下してでも自分の思ったことをとりあえず言ってみたり、必要以上のことを他人が多く集まる場所で見せたり聞いたりしないことだ。

自分は、知り合いが見そうなツイッターで、知り合いのことを馬鹿にしながら、まだ知り合いの心を響かせようと、他人のヴェールをとりはらわないままで自分を響かせようとしている
それをやめなきゃ
ある程度他人のことは諦めて、自分でいろいろやらなきゃいけないんだ。

思考を知り合いにさらしたいと思うけど、それをやっても自分の期待通りに反応してくれる他人なんていない。
怯えながら馬鹿にして、他人を睨みつけながら受け入れられたいというような、土台無茶な要求

他人がそれに答えてくれるはずがない。
やつらはいつだって自分の評価をあげるために何かをするだけ

紹介ではなく進歩を

自分のことを噛み砕いてネットの海に投げこんでいるだけ、という状態は多い

総括していくのではなくて、これからどのように呪縛を解き放っていくかが重要なんだ

他人に自分を評価させにいくのではないんだ、それでは今のままだ。

他人に何も求めない

自分は完璧主義だ。

他人が自分と違うのが許せない

簡単に怒る

簡単に怒ってしまえばいい

他人なんてどうせ他人だ。

簡単に侵害されるから、許せないことが多すぎるから

そしてそれを、共有できないし、他人に求めても最悪な結果になるから

完全に他人を諦めなくても良いが、期待はしすぎない

フィクションと他人の間の決定的な溝

メガネをかけて生活しようか。

なぜか、メガネをかけると他人にビビらなくてすむ

罪悪感を感じるくらいなら他人を見下す

女にすぐ可愛いと思うことをやめようかな、
昔の人は可愛いとすぐに思わないことで、精神を他人に預けるということを回避していたんだろうか。

優しさと、他人の機嫌をとることは違うんだ

他人を適度に見下す

適度に見下すことをほとんどの人がやってるのに、それを言わない。
言えっつうの。
他人はそういうところがあるから仕方ない
こんな感じで見下す

見下して初めて一般的な、大多数の人の精神に近づけるということもある。

決まったことは後悔しても仕方ない。

無駄な飲み会の機会は減らす、だけどもう飲み会も少なくなるか

適度に見下す、期待をいだきすぎない。

物語的な思考に現実の他人を介入させない。

他人は審査員ではない

自分は、他人に振り回されて生きてきた。
実際に振り回されたのではなく、自意識の中で勝手に他人を暴れさせてしまう。

他人を上に感じすぎているんだと思う、逆らっちゃいけない、みたいに。

脳内の他人にいつも審査をさせていた。

それはもうやめだ。

他人は審査員ではない。

徹底的に見下すことはないだろうけど、他人は審査員ではない、審査員はお前じゃないんだよ、くらいは見下していい。

神経質に見下す必要はないけど、基本的に結構見下してていいんじゃないかと思う。

よく、見下す人は心が寂しくてかわいそうな人というセリフがあるけど、見下せなくて他人の審査の奴隷になっているほうがよっぽどかわいそうな人だと思う。

見下すのって悪くない。

他人を見下すことで、自分に余裕ができる

綺麗な異性を見た時も、クソだろうな、と思えばいい。


卑屈な見下し方はだめだ。


例えば、どうせセックスしかやってないんだろうな、という見下し方は、俺がセックスをしていない以上、俺の気持ちをわかってくれ、察してくれということになってしまう。

それじゃだめだ。
だいたい自分の他人像はフィクションからきていて、それは現実と差が結構ある。


現実の他人はそういう大事なことを察することはない。なのにクソみたいな無駄な気遣いをするのに必死だ。

そんなやつらに審査を任すことはできない。お前らはその座からおりろ。

審査はおれがやる。